01.篠山城跡


別名桐ヶ城と呼ぶこの城は,築城家の第一人者藤堂高虎の縄張りで行われた平山城で,方形約400メートルの小規模であるが,要所には,2重の枡型や,二重,三重の櫓を配した堅固なものでした。のち,建物は,取り壊されましたが,城郭はすべて昔のままの姿をとどめています。また,桜の名所としても知られています。
大書院の復元に取り組んでいます。

築城の歴史


 篠山城の築城は、慶長14年(1609)徳川家康の命によって、大坂城攻めの備えと、西国地方への抑えの拠点として、交通の要衝の地である丹波多紀郡の篠山盆地中央部の「笹山」と呼ばれた小丘を利用して築城された。
 築城は約20諸侯の西国大名に賦役を命じた、いわゆる天下普請によって行われ、普請総奉行に池田輝政、縄張り奉行に藤堂高虎があたった。築城にあたって家康は、前年の慶長13年(1608)に家康の実子との伝えがある松平康重を常陸の国(茨城県)笠間から丹波八上城へ転封を命じ篠山に築城されることとなった。
 築城の状況を伝える「篠山旧記御城取立」によると,工事は慶長14年3月に始まり、9月中には石垣の本体がほぼ完成し、同年12月に松平康重が初代の城主として入城している。城の工事はその後約1年続き、町並みの整備も進められた。
 縄張りは環郭式を基本とするもので、高石垣で囲まれた本丸と二の丸を中心にして、犬走りと約20メートル馬場の内濠と三の丸,外濠の順に方形に配置されている。
 城の虎口は,北と東、南の3カ所に馬出が造られ厳重な備えとなっている。外濠周辺には、家臣の屋敷が配置され、更に屋敷地の東側から北側及び西側には山陰道を引き入れた町屋筋が取り巻いている。
 城主は松井松平氏1代,藤井松平氏2代、形原松平氏5代、青山氏6代と続き明治維新を迎えている。
 石高は当初から5万石であったが、第12代篠山城主青山忠裕が老中を30年間努めた功により文政10年(1827)1万石を加増され以後6万石となっている。
 廃藩後、城の建物は大書院を残して一部の門が移築された他はすべて取り壊された。後、大書院も1944年まで残っていたが焼失し,城の建物はまったくなくなってしまったが、本丸及び二の丸を構成する石垣と周辺の犬走りと内濠及び、三の丸、外濠、大手馬出を除く南と東の馬出など城郭の主体部を構成する遺構がよく残っており、昭和31年(1956)12月28日に国の史跡指定を受けた。