02.武家屋敷群(御徒士町)


御徒士町の歴史
 慶長14年(1609)に篠山城が完成し,城下の町割りが行われ御徒士町もその時にはじまっている。城の西側の濠ばたの道に平行して、西側に南北の通りをつけ、道の両側に徒士を住まわせた。この時に割り当てられた間口は、平均8間であったことは現状の境界などから復元的に確かめることができる。
 その後の経過は定かではないが、天保元年(1830)に火災があって、大部分が焼失したと伝えられる。
 復興に際して、道路の西側は、屋敷を約6尺後退させ、火災などの災害に備えたという。現在でも西側は、道路と土塀の間に犬走り状の空き地を持っているが、これがその時のものだといわれる。だから、現存する徒士住宅の大部分のものは,天保火災後に建てられたことになる。
 その後、明治維新までは変化がなかった。しかし、廃藩置県後は江戸詰めの家臣を中心にして篠山を引き払って東京などへ移住していったが、御徒士町に住む人々は、他への転出が少なく、その結果、武家屋敷としての景観が保存されることとなった。
 御徒士町には今なお、10数戸の武家屋敷住宅が存在して、当時の面影をよくとどめているが、このことは全国的にみてもすばらしい歴史遺産である。濠ばたや馬出し周辺の武家屋敷と一体となって、静かな城下町の一角を形成し、優れた歴史的景観を呈している。
御徒士町の特徴
 現存する御徒士町の特徴は、次のようになる。
  1. 武士の居住である。
  2. 建立年代はほとんどのものが、天保元年(1830)以後、ほどなく建てられたものである。
  3. 各屋敷の間口は8間の割である。
  4. 各住居は、禄高、扶持数とも大きな差がないにもかかわらず、規模や部屋の構成に自由さがみられる。
  5. 屋敷の出入り口は、築地塀に門を開き、土間に格子戸を用いている。
  6. 「右ずまい」住居で、座敷は北にくるから、東に縁をつける。従って床間は北にしつらえる。座敷の日照は東側より得ている。曲屋やの部分は屋敷の西側をのばしてつくるが、ここに南に開口を設けて日照を得ている。
  7. 町並みとしては篠山における最も古い景観を今に伝えている。