15.清涼山来迎寺
 立町通りと呉服町からの道路がT字型に交わる少し西側に、北に向かって参道がついている。八脚三戸・薬医門の山門を入ると、見事な勾配の大屋根の本堂を持つ来迎寺(城北口バス停より徒歩すぐ)がある。戦国時代に戦乱をさけて波々伯部保(京都祇園感神院・八坂神社の荘園)に来ていた、京都四条寺町の永養寺誓誉上人に土地の土豪中西政親が教えを受け深く心を引かれ、不断寺を建てたと言う。永禄年間(1558〜70)、波多野秀治が厚い信仰をよせて、この寺を八上城下に移して、阿弥陀寺と称した。篠山築城に際し、新しく城下町が建設されるにあたり、鬼門除けとして、慶長15年(1610)に現在のところに移された。その時の住職は信誉行意上人で、特に本山知恩院第29世満誉尊照大僧正から清涼山来迎寺の山号と寺号をもらい、未寺四ヶ寺がつけられたのである。その後、寛文11年(1671)と文化4年(1807)に大火で焼失したが、間もなくそれぞれ再建された。歴代住職の中には文龍、文笈など音韻学や漢文学者がでている。また、地蔵菩薩木像、鎌倉末期作の三尊来迎図、江戸時代初期作 の大涅槃図、文禄二年(1593)作、奥丹波唯一の名号板碑(板石塔婆とも呼ばれる。板状の石を用い卒塔婆の一種として発生した供養塔で、ほぼ中世にかぎって造立された)などがある。