33.承明門院の供養塔と女人窟

  火打岩口バス停から徒歩約15分

 県道本郷篠山線を北上し、茶臼山の麓の畑川に架かる橋わ渡って、500mほど東へ進むと、山麓にりよう厳寺跡の石柱が建ち、その約100m上に承明門院の供養塔という五輪塔がある。承明門院は、内大臣源通親の養女で名は在子、母は後鳥羽天皇の乳母・藤原範子で、先夫との娘をつれて通親と結婚したのである。後鳥羽天皇の後宮となり、宰相の君と称された。
承久の乱(承久三年・1221)で皇室側は大敗し、鎌倉幕府は後鳥羽院を隠岐島に、土御門院を土佐国、順徳院を佐渡ヶ島へと配流した。伝承によると、戦乱を逃れて承明門院は、この地が曽我部荘として後鳥羽院領であったことや、丹波から皇室に味方する者が多かった縁などをたよって、廃りよう厳寺に身を寄せた。そして、後鳥羽院と愛子土御門院らのご安泰と怨敵北条氏の調伏祈願のために、日夜、りょう厳経を読誦し続け、正嘉元年(1257)7月5日、87才で亡くなられたという。その供養塔の上に、奥行き7mもある大岩窟があり、女人窟と呼ばれている。
役行者(役小角)の石仏が安置されており、女性の修行者はここまで登ると、山岳一巡と同様の功徳を積んだとされたと言われる。
今から770年ほど前のこと、この恐ろしく寂しい洞窟の中で、灯火を頼りに、一心に読経を続ける白衣の女人がいた。村人たちは、その気品のある容姿や振る舞いに、ただ人でないと思い、心を打たれて、毎日、食べ物や、身の回りの品を届けたという。いつとわなしに、その方は承明門院であるとのうわさが流れるようになった。しかし今となっては、それを確かめる証は何もない。今この大岩窟の前に立つと、専心読経に明け暮れたという女性と、才色兼備な皇妃・承明門院の容相とが重ね合わさって、岩肌の冷たさや、こずえをわたる風の音にも、言い知れぬ哀感と無情を覚えるのである。
里人たちは、今日に至るまで、毎年、6月には、ねんごろに供養の法要を行っている。
  「丹波篠山五十三次ガイド」より