40.沢田城跡 (篠山町沢田)
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城北口バス停から徒歩約8分
立町通をまっすぐ北へ進み、城北の田園地帯に入ると、間もなく右側に独立丘(60m)が見える。この上にあった山城である。矢上城主波多野秀治の部将小林近江守長任が、永禄年間(1558〜70)に築いたものという。遺構は、小林寺の背後から、丁度、鳥が両翼を広げたような形で、東西約150mにわたって小山全体が城跡であり、巧みに池や沼、水田なども利用している。頂上に約2000平方mの主郭があり、東から西へ5段に区切られている。その東北には1段下がって2つの郭があり、上部に城主の居館があったと考えられる。南側には幅1m、長さ12mほどの土塁が築かれている。東南への尾根に幅約50m、長さ約80mの2段になっているところは馬場跡と言われ、その先端を堂山といい、「毘沙門堂」がある。このあたりが、大手(城の表口)で、搦手(城の裏口)は北東の池に向かった付近であった。 八上城を目前にあり、笹山・飛の山などと共に篠山盆地中央部の防衛拠点であった。天正7年(1579)5月、時の城主小林修理進(平左衛門)重範は、明智光秀勢の攻撃をうけ勇戦し、討死して落城した。(史料から同6年4月の可能性もある) なお、丹波をあてがわれた亀山(現・亀山市)城主明智光秀は、天正10年6月、本能寺に信長を討ち、山崎の合戦で敗死したため、亀山城主は於次丸秀勝にかわり、その部将並河飛弾守が八上城代となった(天正10年〜同13年12月)このころ、沢田城主に渡部大善網定という者がおり、反乱を起こし、攻略されたという(「丹波興廃記」ほか)。沢田城として最後の戦いである。 「丹波篠山五十三次ガイド」より |