94 白藤城跡(藤坂)
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バスの便はなし 春日神社から約1キロ行くと、八ヶ尾山北麓の県道向かい側、弓谷峠にかかるあたりの北山にあり、藤坂城・中馬城ともいう。明徳年間(1390〜94)に新田義貞の弟の脇屋義助の子尾張守義治が来住し、その子孫が築城したと言われる。 義貞・義助の兄弟は元弘3年(1333)、鎌倉に北条一族を滅し、のち、足利尊氏と戦って、越前金ヶ崎・杣山城と移り、斯波高経勢の藤島城攻撃の際、義貞は灯明寺畷で戦死し、義助は伊予で病死した。その後、上野国(群馬県)新田郡の本領で、文和元年(1352)、義貞の子義興・義宗らと義治は軍を起こし、足利尊氏を追って、一時、鎌倉を占領。さらに越後に転じた。義興・義宗が討死にした後も義治は、軍勢を整えて上杉能憲と戦い、敗れて出羽、信濃と逃れ、ついに丹波に来たのである。古書などによると、4代目の右近之進義貢が文明3年(1471)に中馬と改めて、館を構え、さらに2代後の越前守治秀が元亀元年(1570)に築城したとされる。 山上に約160平方メートルの平坦地があり、ここが本丸で、西に約2メートル幅の帯曲輪がある。その西側に約180平方メートルの平地があり、堀切が残っている。西南の山腹に階段状に2つの平地がある。南麓のの土居の内と呼ばれているところは、中馬氏やその家臣たちの上村・上野・藤田・奥村氏らが居住していた区域と思われ、土塁と堀後がわずかに残っている。 治秀は波多野氏に属し、部将として活躍したが、明智光秀の丹波侵攻の際、天正5年(1577)に降伏のうえ光秀に従って、同10年6月13日、山崎の合戦で戦死したので、一族は各所に逃れ、白藤城は荒廃した。また、戦後に帰郷して旧館に住んだとも言われている。 近くの林景山長谷寺に中馬氏の先祖脇屋義助の位牌を祭っている。 巨那院殿大史従四位下義顕里鷹大居士 応永12年酉3月8日当家元祖脇屋尾張守義治 山間の白藤の里に隠れ、土豪となって戦乱の世を過ごした城主や家臣たちをしのぶには、あまりにも隔世の感がする。 心ある人は来て見よ大くもなる 藤坂山の花のさかりを 和泉式部 「丹波篠山五十三次ガイド」より |