| ホーム > 地域情報データベース > デカンショ大辞典 > デカンショ節考 |
| デカンショ節考
起源と語源 |
| デカンショの起源と語源について篠山町七十五年史(1955)、篠山町百年史(1980)の2冊に詳しく書かれています。語源についてはそれぞれ別の説をとっているなど非常に興味深い資料です。百年史では「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言していますが、七十五年史では意外にも「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」説を採っています。 |
| ●デカンショ節の由来 | |||
| 篠山町七十五年史 | デカンショ節は明治中期から広く全国的に愛唱されるようになり、其の発祥地としての篠山も亦デカンショと結びついて広く宣伝されて来た。然しデカンショは決して其の頃始めて生まれたものではなくて、ずっと古くから唄われて来た「みつ節」の変形である。 最近行われている盆踊は「さいもんくどき」「播州踊」「黒井踊」等であるが、日露戦争前頃までは「みつ節踊」が圧倒的であったという。 みつ節音頭というのは元来此の土地にのみ行われた固有の音頭で他地方にはなかったというが、果たしていつの頃から始まったのかは定かでない。節はデカンショと同じで只囃言葉の「デカンショ」が「ヤットコセ」のちがいだけである。 唄は総じて下卑なものが多く
節は同じであるが「デカンショ」という豪快な囃が時代相にピッタリ来たのか、終いにデカンショ節として天下を風靡してしまった。其の根拠が「みつ節」にある事は、老人衆なら斉しく肯定し得るところであるが、果たしてその「みつ節」が何時頃発祥したのかは立証する何物も得難い。然し百年以上の歴史を持っている事は間違いないものと考えられる。 | ||
| 篠山町百年史 | デカンショ節は、江戸時代から歌われていた篠山地方の「みつ節」の変形したものである伝えられている。 民謡研究者前川澄夫(大野=大阪フィルハーモニー所属)の長年に亘る探索によって、昭和49年(1974年)多紀郡今田町四斗谷で、また昭和五十二年(1977年)後川新田でも、デカンショ節の元歌であるといわれる「みつ節」の歌詞や踊りの資料が得られたのである。 歌詞は誠に素朴で、また野卑なものも多くあり、節はデカンショ節と大同小異で、ハヤシ言葉が地域によって多少異なっていたようである。 次に、デカンショ節が全国に普及した過程において見落としてはならぬものに、千葉県館山の江戸屋(宿屋)における東京一高の学生たちとの出会いがある。旧篠山藩青山家の奨励によって、廃藩後郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成されたことは有名である。そして遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(1979年現在の館山市)を銷夏地と定めここにやってきた。 たまたま明治31年(1898年)の夏、江戸屋の二階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて元気よく唄ったのが郷土の盆踊りの唄であった。ちょうど階下に居合わせた一高生の水泳部員たちがこれを聞き、唄の自然性や野性味、またその節廻しやリズム感がよく、たちまち気に入り、篠山出身の若者たちに付添い訓育に当たっていた亘理章三郎(後に東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放にこれを唄いまくったから、たちまち多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、全国に広まったといわれている。 | ||
| ●「デカンショ」の語源 | |||
| 篠山町七十五年史 | 「デカンショ」という囃の根拠は「出稼しよう」で酒屋出稼から生まれたものだとか、或いは又、東都に学ぶ鳳鳴出身の学生たちが、デカルト、カント、ショペンハーウエル等の哲学者の名の頭文字を取ったものであるとか云われているが、明治中頃の事、青山忠允と房州の海水浴場で之を唄って鳳鳴健児が気焔を挙げていたのを、隣接の東京第一高等学校の生徒寮の学生に伝わり次々と東都の学生間に愛唱されるに至ったともいうから、当時生まれたデカンショの唄の歌詞と、学生が之によって気焔を挙げていた事実と併せ考えれば、囃の根拠はむしろ後者にあると考えられる。 いずれにしてもそれは昔からあったみつ節を其のまま座興で囃をシャレて作りかえたまでの事で、其の発祥はずっと古い昔にある事には間違いない。結局其のシャレた囃に時代的な魅力があり、人口に膾炙された訳である。 歌詞も当時学生であった当町出身元東京高等師範学校教授亘理章三郎の作が多いといわれている。 | ||
| 篠山町百年史 | さて、"デカンショ"の語源については多くの説がある。 △古くからの盆踊り唄にある「ドッコイショ」の変化で、「デッコンショ」−「デカンショ」 △青山藩士たちがよく飲みあかし、唄い明かした事例がそのままに「徹今宵」―「テッコンショ」−「デカンショ」 △郷土出身者の「天下将」たらんとする心意気がそのまま「テンカノショウ」−「デカンショ」 △学生たちが、有名な三人の哲学者「デカルト」「カント」「ショウベンハウエル」の頭文字をもじったという「デカンショ」 △昔から丹波杜氏の出稼は有名で「出稼しょう」−「デカンショ」 △その他方言「デゴザンショ」やら、あるいは大きなこと「デッカイコト」しよう。 等々その根拠らしく、いろいろ伝えられていてなかなか巧妙である。 その語源がいずれにせよ「デカンショ」の語義そのものには特別には意味はなく、例えば炭坑節「サノヨイヨイ」や安来節の「エッサッサ」と同じ掛け声に相当するもので、「ヨイヨイ」や「ヨーオイ、ヨーオイデッカンショ」もハヤシ言葉にすぎず、ことさらに意味を持ち、また持たせる必要もないであろう。 東京在住の高田彰(篠山出身・鉄道員勤務=明治43,4年に「丹波戦史波多野盛衰記」発行・著書)が、明治44年に「デッコンショウ節」の歌詞を募集している。そして大正4年斉藤秀三(立町)がはじめて「デカンショ節」を編輯されている。したがって大正の極く初期には、「デカンショ」という文字にすべて定着したと見るべきであろう。 | ||