| 時は流れて300年ののち |
赤穂浪士不破数右衛門ゆかりの地![]() |
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赤穂浪士不破数右衛門ゆかりの宗玄寺 古市義士まつり 1999年12月14日 赤桶義士ゆかりの宗玄寺には、四十七士のひとり、不破数右衛門正種の碑が建っています。主君の仇討ちを許された数右衛門は、吉良邸への討ち入りがせまったある夜、父母と子供たちが身を寄せていた宗玄寺に別れのあいさつによりました。 本懐を遂げたあと、母親が選別に縫い上げた数右衛門の襦袢と短刀が、宗玄寺に届いたといいます。 そんな逸話にちなんで12月14日に宗玄寺周辺で古市義士祭がおこなわれます。 1932年に、古市村の大事業として、宗玄寺境内に顕彰碑が建てられ、毎年盛大に村をあげて「義士祭り」が催されていましたが、戦後GHQの指示で一時中止していましたが、1955年再開しました。 |
■赤穂浪士不破数右衛門(宗玄寺ホームページより) 赤穂浪士不破数右衛門正種は幼名を「藤八」と言い、赤穂藩士岡野治太夫正治の子で,断絶してい不破家復興のために養子となり、同藩士村松喜兵衛の娘「くに」を娶り二児がありました。数右衛門会々事(一説には大野九郎兵衛との不仲説、一方では新刀の試し切りによる引責ともある)に触れて流浪し、江戸に浪人として暮らしていました。 江戸城松の廊下での事件により、浅野内匠頭切腹・領地召上げとなり、藩士は悉く離散しました。このとき実父の岡野治太夫は、隠居しており、一時播磨亀山に移っていましたが、実妹「おさよ」(通称「熊女」)の婚家である古市の鍵屋という造り酒屋の酒井三郎右衛門(おさよの夫)を頼り来て、治太夫夫婦と数右衛門の二児と共に寄食し、その後、更に「おさよ」の娘の嫁ぎ先となる古市宗玄寺に寄寓していました。 数右衛門は内匠頭に重用されていたため、その恩に報いん為に、ひそかに一味に加わり復讐の機を待っていましたが、生前に両親や愛児に会わんとして、江戸より亀山を訪ねましたが、既に両親は古市に移住していましたので、人目を避けるため、古市との村境の不来坂峠で村人を使いにたてました。 母は二児と共に不来坂峠に出て数右衛門と出会い、二児を託し置いて寺に引き返し、自分の白無垢の下着を取り出し、その裾を絶って襦袢にし、幾何の銭とを持って戻り、もし復讐の挙あらば此の襦袢を着て、母と二人の働きを為すようにと、この襦袢を贈り、尽きぬ名残を惜しみました。 数右衛門はそのまま江戸へ帰り、その後の討ち入りの当夜、一味と蕎麦屋に集まって各自討ち入りの装束する際、数右衛門が母より贈られた女物の襦袢を着るのを見た大高源吾は、その由来を聞き、感銘して、背後より次の白居易の一句を襦袢の背に書きました ■鶴屋南北作『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』 不破数右衛門は四谷怪談の作者鶴屋南北によって『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』の主人公として描かれています。 内容は元赤穂藩士、薩摩源五兵衛こと不破数右衛門が、討ち入りの一行に加わるために調達しようとしている百両の金を巡って起こる皮肉で凄惨な事件ということになっています。 劇団青年座や歌舞伎として繰り返し演じられています。 数ある四十七士それぞれのドラマの中でも最も劇的なもののひとつとして扱われています。 |
■古市のまちなみ その昔奈良時代の頃、馬の乗り継ぎや宿泊・休憩ができるようにと4里(16キロ)ごとに「道の駅」がおかれていました。江戸時代になると1635年から参勤交代制度が始まり、各地で主要道路や宿駅の整備が図られたといいます。篠山でも篠山城大手門を起点にして、一里塚がもうけられ、長い間通行の目印にされてきました。 随所に設置された宿駅の中でも福住、追入、古市は多紀三駅と呼ばれ、大変にぎわいました。 この古市は丹波と播磨を結ぶ要衝として栄え、現在でも宿場町の趣が随所に残っています。 |