ふる里新発見伝10
阪神淡路大震災から3年
地道に続くボランティア活動「フェニックス篠山」
街かどレポーター
松本広美(有居)
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阪神・淡路大震災から3年が過ぎ、被災地では着実に復興が進んできています。一方で、今も仮設住まいで自立の道がなかなか困難な状況にあることを報道などで見受けます。去る1月29日、ボランティア「フェニックス篠山」(代表・中山和仁さん)ほか、被災され縁あって篠山の地に定住された方々のお話を伺いました。今回は、被災者とこれからの暮らしについて考えます。
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●大震災のときを振り返って
1995年1月17日早朝5時46分、「ゴォーッ!」と鳴り響く音とともに大地震が発生。そう、あの忘れたくても忘れられない「阪神・淡路大震災」。たくさんの家屋・道路・建物など、大地が崩壊していきました。この篠山でも、立っていることができないほど大きく揺れて、部屋のタンスが倒れ、壁が崩れたのを覚えています。直接の被災地となった神戸、阪神間では6000余名もの貴い命が失われました。また、多くの人たちが小学校などの避難所へ避難しました。
私も後日には、被災地・神戸市灘区方面へ「炊き出し」のボランティアとして参加しましたが、行ってみてあの美しかった神戸の街が、戦後の荒れ地のように変貌していました。
「炊き出し」に来られるたくさんの被災者の皆さん。当時はまだ連絡手段が回復しておらず、避難所へ持ち帰られた方が口伝えで他の人たちに教えてあげるなどの状態で集まられていました。当時は、毎日の生活にとても厳しい状態にありました。
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●ボランティアが心の支えに
しかし、月日が経つにつれてなお厳しい生活が続いていることを教えられました。震災後、被災地支援にボランティアとして参加された人々は、累計で約173万人(1997年8月)。また、被災された人々は、避難所から徐々に仮設住宅などへと自分の住居を捜し続ける人たち。さらに仮設住宅から自立の道へという現状が今も続いています。その中で、心のケアを含め活躍されているのがボランティアの皆さん。
そんな被災者の一人として篠山の地に移って来られた中山和仁さん(河原町)。篠山町に定住された中山さんは、1997年7月にボランティアの集団「フェニックス篠山」を結成され、同じ被災者である橘勉さん(郡家)や小松道夫さん(郡家)らと連絡を取り合いながら、全県的な組織としてのネットワークはもちろん、ここ篠山の地で地道な交流活動を続けておられます。中山さんのお話しによると、被災地では、仮設住宅の中に、寝たきり老人が156人、痴呆老人が129人おられるということを伺いました。
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●定住した篠山で生きがいを…
中山さんは、篠山に住んで何げなく毎日が過ぎていくのが寂しい、自分の生活に生きがいをもち、前向きに暮らしていきたいという願いから「フェニックス篠山」を発足されたそうです。篠山町の人々は、「城下町文化の町であるためか、保守的な印象はあるが、閉鎖的ではない」と、中山さん。しかし、都会での暮らしをしてきた中山さんらにとって、田舎での生活に大きなカルチャーショックをもっておられました。「都会では隣の人がだれだか知らないということが、田舎では『村単位』でつながり援助があったり、老人ホームには待機する人たちの数が多くなかったりという違いを実感します」とも。反面、「市営バスなど無料で乗車できていたものができなかったり、公共施設の利用や行政サービスが少なかったり、住居が見つかっても家賃が七〜八万円もかかるなど、収入のない老人がどうやって支払っていくかなどの問題がある」と言われます。
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●今そしてこれからのこと
中山さんらは、全く知らない土地へ、そしてどこへ相談したらよいのかも分からない被災者の皆さんが、この篠山の地で定住していけるように少しでもお役に立てるようにと、活動をされているのです。まずは自分たち自身が篠山町を知らなければ生活しにくいということから、町について知るためのさまざまな勉強を続けておられます。今後、一番の関心事は「公的介護保険」がどうなっていくのかということだそうです。近隣との接点が少ない被災者の立場から、「公的介護」に関する行政情報などをもっともっと欲しいとのことです。
大震災から3年を経過しました。この「フエニックス篠山」が結成されてからは、まだ半年余り。ボランティアとして私たちができること、だれにでもできるとはいえませんが、新しい町民として住まわれた皆さんとのふれあいの機会があれば、田舎ならではの暖かさを分かち合える、そんな篠山町でありたいと思います。阪神・淡路大震災を決して忘れないためにも…
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