1998年3月号

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伝統が生きるデカンショのまち
篠山町ホームページのアドレス
http://www.town.sasayama.hyogo.jp/


篠山に新風  「甘辛しゃん」効果!

 NHK連続テレビ小説「甘辛しゃん」は いよいよクライマックスに
 ドラマの舞台となった神戸・灘は「酒造り」の本場
 阪神・淡路大震災からの復興にも 元気なエールをおくる
 そして丹波杜氏のふるさと篠山には 新しい風の訪れを実感
  「甘辛しゃん」がもたらす波及効果は計り知れない
「未来は きっと過去にまさる!」
名実ともにふるさと日本一 人心に温もりのある町づくりをめざして

―榊泉役佐藤夕美子さん(左) 榊そよぎ役大村彩子さん(右)―
(1)
ふる里新発見伝10
阪神淡路大震災から3年
地道に続くボランティア活動「フェニックス篠山」

街かどレポーター
松本広美(有居)
阪神・淡路大震災から3年が過ぎ、被災地では着実に復興が進んできています。一方で、今も仮設住まいで自立の道がなかなか困難な状況にあることを報道などで見受けます。去る1月29日、ボランティア「フェニックス篠山」(代表・中山和仁さん)ほか、被災され縁あって篠山の地に定住された方々のお話を伺いました。今回は、被災者とこれからの暮らしについて考えます。
●大震災のときを振り返って

1995年1月17日早朝5時46分、「ゴォーッ!」と鳴り響く音とともに大地震が発生。そう、あの忘れたくても忘れられない「阪神・淡路大震災」。たくさんの家屋・道路・建物など、大地が崩壊していきました。この篠山でも、立っていることができないほど大きく揺れて、部屋のタンスが倒れ、壁が崩れたのを覚えています。直接の被災地となった神戸、阪神間では6000余名もの貴い命が失われました。また、多くの人たちが小学校などの避難所へ避難しました。
私も後日には、被災地・神戸市灘区方面へ「炊き出し」のボランティアとして参加しましたが、行ってみてあの美しかった神戸の街が、戦後の荒れ地のように変貌していました。
「炊き出し」に来られるたくさんの被災者の皆さん。当時はまだ連絡手段が回復しておらず、避難所へ持ち帰られた方が口伝えで他の人たちに教えてあげるなどの状態で集まられていました。当時は、毎日の生活にとても厳しい状態にありました。

●ボランティアが心の支えに

 しかし、月日が経つにつれてなお厳しい生活が続いていることを教えられました。震災後、被災地支援にボランティアとして参加された人々は、累計で約173万人(1997年8月)。また、被災された人々は、避難所から徐々に仮設住宅などへと自分の住居を捜し続ける人たち。さらに仮設住宅から自立の道へという現状が今も続いています。その中で、心のケアを含め活躍されているのがボランティアの皆さん。
そんな被災者の一人として篠山の地に移って来られた中山和仁さん(河原町)。篠山町に定住された中山さんは、1997年7月にボランティアの集団「フェニックス篠山」を結成され、同じ被災者である橘勉さん(郡家)や小松道夫さん(郡家)らと連絡を取り合いながら、全県的な組織としてのネットワークはもちろん、ここ篠山の地で地道な交流活動を続けておられます。中山さんのお話しによると、被災地では、仮設住宅の中に、寝たきり老人が156人、痴呆老人が129人おられるということを伺いました。

●定住した篠山で生きがいを…

中山さんは、篠山に住んで何げなく毎日が過ぎていくのが寂しい、自分の生活に生きがいをもち、前向きに暮らしていきたいという願いから「フェニックス篠山」を発足されたそうです。篠山町の人々は、「城下町文化の町であるためか、保守的な印象はあるが、閉鎖的ではない」と、中山さん。しかし、都会での暮らしをしてきた中山さんらにとって、田舎での生活に大きなカルチャーショックをもっておられました。「都会では隣の人がだれだか知らないということが、田舎では『村単位』でつながり援助があったり、老人ホームには待機する人たちの数が多くなかったりという違いを実感します」とも。反面、「市営バスなど無料で乗車できていたものができなかったり、公共施設の利用や行政サービスが少なかったり、住居が見つかっても家賃が七〜八万円もかかるなど、収入のない老人がどうやって支払っていくかなどの問題がある」と言われます。
●今そしてこれからのこと

 中山さんらは、全く知らない土地へ、そしてどこへ相談したらよいのかも分からない被災者の皆さんが、この篠山の地で定住していけるように少しでもお役に立てるようにと、活動をされているのです。まずは自分たち自身が篠山町を知らなければ生活しにくいということから、町について知るためのさまざまな勉強を続けておられます。今後、一番の関心事は「公的介護保険」がどうなっていくのかということだそうです。近隣との接点が少ない被災者の立場から、「公的介護」に関する行政情報などをもっともっと欲しいとのことです。
大震災から3年を経過しました。この「フエニックス篠山」が結成されてからは、まだ半年余り。ボランティアとして私たちができること、だれにでもできるとはいえませんが、新しい町民として住まわれた皆さんとのふれあいの機会があれば、田舎ならではの暖かさを分かち合える、そんな篠山町でありたいと思います。阪神・淡路大震災を決して忘れないためにも… 
(3)
TOWN NEWS まちのわだい
●「三宅剣龍賞」に5人
「みどり賞」に3人が受賞


 篠山町教育委員会主催の今年度の「三宅剣龍賞」と「みどり賞」の表彰式が2月11日、篠山町役場で行われました。
 「三宅剣龍賞」は、篠山町西岡屋出身の高名な書家・三宅剣龍氏から寄託された基金の運用益で、学術や文化の高揚に貢献した人たちを対象に1986年度から表彰しているものです。
今年度は、次の五名の方が受賞されました。
○木戸茂子さん(77)東本荘=ちぎり絵 
○辻民子さん(81)乾新町=詩吟 
○中野仙次さん(63)辻=音楽 
○波々伯部昇平さん(69)呉服町=邦楽 
○波々伯部美砂さん(78)八上下=音楽
 また、教育面で顕著な活動をした人たちに贈られる「みどり賞」には、次の3名の小・中学生が選ばれました。
○篠山小学校6年・平野剛さん=カルタ大会成績顕著 
○篠山中学校3年・田野益三さん=バスケットボール成績顕著 
○城東中学校3年・川端優さん=バレーボール成績顕著
●誓いも新たに! 篠山町消防団出初式

  新春恒例の篠山町消防団「出初式」が1月11日、篠山市民グラウンドで行われました。式典では、町内11分団から団員799名の皆さんが集合。
式典は、西嶋団長や瀬戸町長などの訓示に始まり、年頭に際しての防災・予防消防の普及・徹底、有事の際に整然たる即応体制で臨むことなどについて、一層研さんに努めることが誓い合われました。なお、式典終了後は、団員による分列行進や、自動車ポンプによる一斉放水が行われました。
●篠山演劇サークル「花いちもんめ」旗揚げ公演大成功に終わる

 2月15日、たんば田園交響ホールで、篠山演劇サークル「花いちもんめ」の旗揚げ公演が行われました。会場は立ち見客がでるほどの大盛況。子どもからお年寄りまでの方が一目見ようと来場していました。
 演題は、木下順二作の「夕鶴」。「鶴の恩返し」という民話に素材を求めたもので、鶴の「つう」役で、出口まりこさん(曽地口)が熱演。
「愛」と「憎」そして「哀」を見事に演じきっていました。また、「つう」の夫役「与ひょう」に足立義則さん(二階町)、「与ひょう」の友達「運ず」には、藤井宣良さん(畑市)、そして悪商人の「惣ど」に棚橋直人さん(郡家)が扮し、精一杯の演技を披露していました。
 「花いちもんめ」の命名由来は、「仲間が増えたり減ったりしながらも手をつないでいこう」という仲間づくりにあるとか。終演後には早速入団希望者が現れ、仲間づくりの輪が広がり始めていました。
●図書館主催  絵本カルタ会とお楽しみ会

 1月17日に、小学生以下の子供たちや保護者約50名が集い、篠山市民会館で「絵本カルタ会とお楽しみ会」が開催されました。
 昨年から始まったこの行事は図書館が主催しており、今回が第2回目。「子どもたちに少しでも絵本に触れる機会を…」という願いから、職員が厳選した約80冊の絵本を図書館から持参。さらに、職員だけではなく高校生や大人のボランティアの方たちも参加し、大型の絵本を読み聞かせたり、紙芝居をしたりと、一緒になって子供たちと交流を図っていました。
 中でも、絵本カルタ大会では、絵本にでてくる絵が描かれた手作りのカルタを高校生が読み上げると、子どもたちは真剣な面持ちで取り合いをしていました。また、今年の干支の「寅」を折り紙で作ったり、歌を歌ったりととても和やかな雰囲気で、皆さんの顔には終始笑顔がこぼれていました。  
(4)
●ぼくとわたしの作品らんど
鶴の一声


篠山小6年 青木 幸さん

「バカ おたんこなす」
「あほ きゅうりのかっぱ」
言い争っているのは
うちの妹と弟
弟の足が妹に当たってけんかした
「まぬけのおにー」
「のろまの、のろま」
ついに、弟がけった
当然、妹が泣いた
そこで母が
「いいかげんにしなさい」
妹が泣き止み静かになった
本当のところは
仲のいいきょうだいなのです
たぶん…
綱引き


 篠山小6年 志原ちひろさん

「いちに、いちに、いちに」
そのかけ声が
私たちに飛び込んでくる
早くなったり遅くなったり
いろいろだ
だから、耳でよく聞く
「決勝戦へ行く」
そう心に決め
みんなの心を
綱に乗せ
がんばった
結果はダメだった
でも、
悔いはない


後川小5年
 小倉光弘くん

後川小3年
 倉美菜子さん
(5)
本物志向でないと生き残れない

河原町
多谷志郎さん(42)
 明治時代からの老舗「多谷畳・敷物店」を経営されている多谷さんは、4代目を継承。学校卒業後、サラリーマンを経験し、以来本格的に畳屋の仕事を始めてからは約15年になります。
 一般的に畳の技術・仕事を覚えるためには最低5年。寺社に使われている畳を作るには10年はかかるといわれます。それを多谷さんは約半分の時間で習得されたそうです。それは、子どもの頃から手伝いをする中で、父親の畳仕事を見ておられたという経緯があったからと言われます。
 多谷さんのお店にも機械が導入されていますが、オートメーションではなく、直線を縫い上げるためだけのものとか。表張りや、わら・イ草の調整などは全て手作業。へりに紋模様を入れる畳などは、紋の位置を合わせるのに苦労されるそうです。
 「畳は日用品なので、必ず傷むものなんです」と言われるように、後世に形として残るものではありません。しかし、技術は残すことができます。疑似的な畳が出回る昨今、単に安価なものを追求することが、畳のよさを失いつつあるのかもしれません。よさを打ち出せない業者は消費者から見捨てられる。畳屋の生命線はそこだとも言われます。
 生き残るためには、本物の材料に本物の技術が不可欠。「本物志向でないと生き残れない」という言葉が胸に残りました。    

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