1998年10月号

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伝統が生きるデカンショのまち
篠山町ホームページのアドレス
http://www.town.sasayama.hyogo.jp/


丹波篠山デカンショ節100年 明日へ受け継ぐ!!   

今からちょうど100年前、1898(明治31)年         
房州館山・江戸屋旅館で旧制第一高生らが出合った         
丹波篠山「デッコンショ」 歌詞や唄のリズムは 蛮カラ・高ゲタのいでたちに合っていた    
当時の学生気質に豪気朴訥なひびきがマッチしていた     
やがて学生「書生歌」として広く愛唱されたのは必然といえた
そして はやし言葉も「デカンショ」に…   
ヨオーイ ヨォーイ デッカンショ!
かくして丹波篠山「デカンショ節」は生まれ 歴史を刻む
来春 新「篠山町」となって また大きな第一歩を記すことに…  
「デカンショ節」が 篠山の愛唱歌としてさらに大きく受け継がれていく
(1)
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「デカンショ節」100年を振り返って これから

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篠山町のキャッチフレーズは、「伝統が生きるデカンショのまち篠山」。このフレーズは、町の表看板として定着しています。その意味では今年「デカンショ節」100年の節目にあたり、今一度「デカンショ節」発祥のルーツ(注1)をたどることで、明日への活力となる篠山づくりを確かなものにしていこうと思います。
「デカンショ節」のルーツを追って!


原点は盆踊り唄「みつ節」

デカンショ節の元唄は「みつ節」であるといわれていますが、そのみつ節がいつごろ発祥したかは定かではありません。「みつ節」は、江戸時代中期に篠山藩の儒学者が篠山の盆おどり唄として改作し、今日の「デカンショ節」に受け継がれている(注1)といわれているのが通説のようです。
かつて第6代篠山町長・古川岩太郎さんがみつ節の由来と踊りについて探求。最近では、篠山町大野在住の前川澄夫さん(元大阪フィルハーモニー・ヴィオラ奏者)が、1974年に今田町四斗谷で、また1977年には篠山町籠坊でみつ節の歌詞や曲、踊りを探求されました。

みつ節の歌詞は素朴で、節は「デカンショ節」とよく似ています。そのテンポは緩やかで、はやし言葉が地域によって多少異なっていたということです。明治末期以降、篠山町や周辺では、「江州音頭」「河内音頭」「福知山音頭」のような派手な面白い音頭が広まったといわれますが、当時、情報伝達がなかなか行き渡らなかったという背景や、「みつ節」が地域に慣れ親しまれていたということもあって、その後も消えずに歌い継がれていったということです。

みつ節から「デッコンショ」へ

明治の廃藩置県後、「旧篠山藩主・青山忠誠(ただしげ)は『育英報国』の理念をもって、私財をなげうって俊才を東京の自邸に招き養育修業させたといわれ『笈(きゅう)を負い(注3)花のお江戸で勉学を志す若者が増えていった。そして時に会して歌う唄は郷土の伝来の盆おどりの唄であった』と記録にあります。そして、ここに現れたのが亘理章三郎氏の『デッコンショ』である」と南松雄さん(=「デカンショ節」研究者・池田市在住)の書かれた(注4)レポートで述べています。

このレポートによると、「明治30年8月8日発行の『多紀通信会雑誌』第9号に、『郷歌の解』と題し、雲渓野生というペンネームで亘理章三郎さんの一文があり、これによって『デッコンショ』誕生の亘理さんの趣旨がよくわかり、そこに語られる根本精神がデカンショ節にも受け継がれている」とのことです。

1898年7月、青山忠誠の子息・青山忠允(ただこと)・忠揚(ただたか)の教育主任として、避暑地・房州館山(現在の千葉県館山市)を学問と臨海鍛練の地に選び同行したという亘理さん。

その亘理さんが執筆の掲載文「郷歌の解」によれば、「懐ひ起こすかな昨夏同郷諸君と共に安房の北条八幡に遊び、湊河畔月明らかにして風清き夜、砂浜の上に団欒して漁獲の香魚を下物とし、野酒を傾けし事を。―中略―。郷国に関する26字歌10数篇を作り、之を我郷特有の盆踊(デッコンショ)の俗曲に合して清涼なる夏の夜を驚かし、天にも響け地にも徹せよと計りに放歌し且つ乱舞せしを。―中略―」と述べ、さらに「―中略―。歌も曲も賢材の制作を得て我郷里特色の歌曲を確定し、独り盆踊のみならず集会にても宴席にても郷里にても他国にても、我郷人の興楽する所には必ず之を歌ひ且つ舞ふに至らむことを切望す」と述べています。
かくして、亘理さんの望みどおり、東京では青山忠允(12、3歳ころ)をはじめ、在京の人たち、地元篠山はもちろんのこと、他国へ出掛けた人はその他国で「デッコンショ」を歌ったといいます。


「デッコンショ」から「デカンショ」へ

南さんによると、「『デカンショ』という文句ができたのは1898年夏以降であって、それ以前にはなかった」ということ。その発祥のルーツを探れば、「1898年夏、房州館山『江戸屋旅館』で、旧篠山藩主・青山忠允公一行から、旧制一高水泳部委員・塩谷温氏らが、丹波篠山盆踊り唄『デッコンショ』を教わり、東京に帰って寄宿寮で歌ううち、『デッコンショ』が『デカンショ』に変わった」と言われます。そして、一高生をはじめ、旧制高校生らを通じて全国に書生節、蛮カラ風な『デカンショ節』として広がっていった」と考えられます。南さんは、「この房州館山「江戸屋旅館」における丹波篠山の一行と、一高生の出会いがなければ「『デカンショ』は全国に広がらなかったかも?」とも述べています。
この房州館山「江戸屋旅館」での出会いで始まるエピソード、「デカンショ節」が全国に誇り高く歌われていく過程は、10月10日開催の「デカンショ節100年記念事業」の演劇公演(篠山演劇サークル・花いちもんめ)で披露することになっています。
元々は、青山忠允一行が郷里篠山の愛唱歌として歌ったのがきっかけで、一高生らに広まった「デカンショ節」。「その歌詞や曲がもつ野性的なリズムが学生の気風にマッチしたのだろう」と南さん。篠山の民俗史としての見方もされる「デカンショ節」。館山の地で偶然な人と人との出会い、そして旧制一高生らが端緒となり、全国各地で歌い広められていったデカンショ節この過程に、意気多感な人々の心を一つにつなぐ理屈抜きの大きな媒体となっていったことを想像するとき、大きなエネルギーと若さあふれるバイタリティを感じさせてくれます。

人々をつなぐ共有の財産として

篠山町は、今年「デカンショ100年」の節目として、さらに平成11年4月には多紀郡の合併を控える大きな節目の時期として、郷里の人々がこの「デカンショ節」を共有の財産としてとらえ、郷土の誇りとしてきた先人の願いとともに、今を生きる篠山町民の暮らしを支える心のシンボルとして、将来の新しい「篠山町」づくりへの糧にしなければならないでしょう。「『デカンショ節』は永遠に不滅である!」と、内外に高らかに宣言しつつ、その声が全国各地に、そして世界にとどろくように。デカンショ節を通して“ふるさと日本一のまち”篠山づくりに一層躍進できるよう、この節目を機に誓い合いたいと思います。

南 松雄さん
大阪府池田市在住

篠山歩兵第70連隊に応召入隊したのが縁で、篠山町とのつながりができる。また、旧制一高出身の関係から「デカンショ節」のルーツ探究に携わる。著書に、「デカンショ節と一高水泳部」「デカンショ節・総集編―そのルーツと変遷」(多紀郷友会発行)など。現在、観光ボランティア「ディスカバーささやま」に所属している。

一高生が歌った「デカンショ節」は、民謡調でなく躍動的な節回しだったと思います。寮の中では、バケツや竹刀を持って踊るストームがあり、新入生歓迎のセレモニーで寝室を回ってたたき起こし、廊下をカッポするといったことがあったようです。昭和になってからは下火になりました。


898年ごろ、一高にはまだ寮歌らしい寮歌がありませんでした。あっても1894,95年、日清戦争の影響で、軍歌調ものが多く、一高生は満足していなかったのでしょう。そんな時に教わったのが「デッコンショ」。その豪放快活、野性的な文句や節回しが気に入り、ゾッコンほれ込んでしまいました。一高生の気質にドンピシャリでした。 

初めは、はやし言葉が「デッコンショ」でありましたが、歌っているうちにいつの間にか「デカンショ」に変わったようです。哲学者の名を意識したかどうかは不明です。大正8年以降、全国各地に所在地名をつけた高等学校ができましたが、当初「寮歌」がないため、開校時の街頭行進の歌に「デカンショ」を歌った学校もありました。それほど全国各地で「デカンショ節」が広がっていたともいえます。

かつて、篠山と館山の市民が賛意を表し、双方の観光協会が姉妹提携を結ぶに至ったように、これからは例えば、小・中・高生のスポーツ交流や、町の催しなどを通して、お互いの交流が深まっていければ…と、心から願っています。




※本文中の「注」
1南松雄著・「デカンショ節・総集 編―そのルーツと変遷(多紀郷友 会発行『郷友』第374号」
2前川澄夫著・「デカンショ節考」
3「笈を負い」の笈とは、本を入れて背負う箱のこと
4.1に同じ
十年ぶり「デカンショ節」ゆかりの地・房州館山を公式訪問

「一高水泳部詠帰寮跡」記念碑

「デカンショ節発祥の地・江戸屋旅館跡」
記念碑
「デカンショ節100年」を記念して、去る8月29日、30日の2日間にわたり、篠山町の観光文化交流団(瀬戸亀男町長を団長に総勢9名)が、10年ぶりに「デカンショ節」ゆかりの地、千葉県館山市を公式訪問しました。
訪問地は、今から100年前、房州館山旧江戸屋旅館において、青山忠允公一行と旧制一高水泳部の部員とが「デカンショ節」が取り持つ縁で偶然かつ運命的な出会いとなった所。いわゆる「デカンショ節」発祥の地です。 
この縁があって、1973年8月17日、第26回デカンショ祭の櫓(やぐら)の上で、当時の半沢良一館山観光協会会長(市長兼務)と、中西通篠山地方観光協会会長によって両観光協会の姉妹提携が締結されたという経過があります。
その後、1979年には藤井正一篠山町長、新家茂夫町議会議長、中西観光協会長一行が館山市を訪問。1988年8月には、双方の訪問団が交流しあって以降、平成2年に半沢市長が逝去されたこともあって、当時を知る人の記憶が薄れ、今日に至って交流が途切れた状態にありました。
今回、「デカンショ節」100年の節目をきっかけとして実現した館山市訪問。なつかしの「学生歌デカンショ節発祥の地」記念碑や、「一高水泳部詠帰寮」記念碑の前に立った瀬戸町長ら訪問団一行は、感慨にふけることしきりであったといいます。記念碑の前では、だれがともなく歌い出した「デカンショ節」。庄司館山市長や庄司館山観光協会長などと肩を組みながら、改めて友好と親善を確かめ合う合唱披露となり、これからも交流の継続を誓い合いました。
(2)
ふるさと新発見伝16 


―初秋森林浴場散策編―

ふるさと篠山の自然に魅せられて


今月号は、篠山町内の自然公園2カ所を訪ねました。身近なところで意外にも素敵な森林浴が楽しめるふるさと篠山の自然。日ごろの喧騒から離れて、ご家族で心やすらぐひとときをお勧めします。

会いたくなるふるさとの自然


「うさぎ追いし かの山 小ぶな釣りし かの川 夢はいまも めぐりて わすれがたき ふるさと」。今はあまり歌われなくなりましたが、この歌を口ずさむとき、私は丹波の里山が心に浮かびます。幼いころ、遊びに来た篠山。福知山線で竹田尾渓谷を真下に眺めながら、幾つものトンネルを抜けると、パーッと広がる田園風景。もうワクワクして着くのが待ち切れませんでした。あぜ道・小川・土手が遊び場で、めだかが泳ぎ、ホタルが舞い、野花が咲き誇るさまに子どもの冒険心を満足させてくれる自然がありました。「そんな感動にもう一度逢いたい!」という思いから、今回は、家族で手軽に自然と遊べるところはないかと探してみました。


筱見四十八滝公園で見たも


篠山町は、北は県立多紀連山県立自然公園、南は県立猪名川渓谷自然公園に囲まれた風光明媚な篠山盆地の中心に位置しています。まず、その多紀連山の東の麓にある筱見四十八滝公園に行ってみました。途中、山際の道で野猿がさっと車の前をかすめるように横切ったのでびっくりしました。山里では猪や鹿が出てきてもおかしくありませんね。ここは、多紀連山を源とする清流が、深い森を通る間に八つの滝となって流れ落ちるところです。これらの滝が始終涸れることなく流れていることから、その名が付けられたそうです。
登山口では、休憩所・広場・炊事場・トイレがあり、ここならキャンプや飯ごう炊さんが楽しめます。ただ残念なことに、ごみ箱のに捨てられたごみを野猿が荒らしたのか、使い捨ての食器が散乱し、空き缶がゴロゴロ転がっていました。この森林公園は地元の方々の管理もあって本当に美しく保たれています。しかし、ごみの散乱状態はあまりにもひどいのが気になります。篠山町公民館では、キャンプ使用の許可証を出したり、ごみは持ち帰ってもらうよう掲示をしたり、口頭でもお願いしているそうですが、なかなか徹底できないようです。最近では、京阪神間からのハイカーも増えたそうで、モラルの向上ともに何か対策を考えないと、放っておいたら美しい自然が簡単に壊されてしまいそうに思います。


浜谷水辺の里公園で

次の目的地への道すがら、車中から絵のような田園風景を眺めていました。もう稲刈りの季節です。多紀のなざらかな山々を背景に、広がる黄金色に輝く稲穂の海。まるでそこに溶け込むように働いている人々。丹波人にとって自然とは、レジャーなんかではなく生きることそのものなんだなあと実感しました。おいしいお米・黒豆・山の芋…、みんなこの土の恵みです。
と考えているうちに、盃山の麓にある「浜谷水辺の里」公園に着きました。山裾の静かな池を巡る散歩道。さまざまな広葉樹が植えられ、その一つひとつに丁寧に名札が記されています。
ぶらぶら歩いていると、郡家にお住まいだという親子連れに出会いました。坊やがこの公園をお気に入りで、よく来られるそうです。「土日には釣りを楽しむ人がいたり、憩いの場にしたりする人がいます。こういう公園が増えればうれしいですね」と話されている間に、水辺にいた坊やが靴を履いたままジャンプ。そのまましゃがんで肩まで浸かってしまいました。あら、服がびしょぬれだわ、と思っていると、お母さんは着替えの服をちゃんと持ってきておられました。思わず水に入ってしまった幼子。それを温かく見守るお母さんの親心が感じられ、ほのぼのとした気持ちになりました。
「自然」とお話ししながら、夢中になって遊ぶことのできる子ども時代を、次の世代に伝えていきたい。「丹波の美しい自然よ、いつまでも」と願わずにはおれませんでした。
(3)

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