篠山市篠山伝統的建造物群保存地区(城下町篠山の町並み)

 

旧武家町の町並み 篠山城跡 旧商家町の町並み

 

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名  称
篠山市篠山伝統的建造物群保存地区
(ささやまし ささやま でんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)

■所在地

兵庫県篠山市東新町、西新町、南新町、北新町、河原町、小川町及び立町の一部

■種  別

城下町

■面  積

約40.2ヘクタール

伝建地区マップ クリックすると拡大図になります(PDFファイル)


■保存地区決定告示年月日


平成16(2004)年7月30日

■国重要伝統的建造物群
 保存地区選定年月日
平成16年12月10日

■選定基準


(二)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの

■伝統的建造物及び環境物件  
  の特定数
  (平成26年12月26日現在)


伝統的建造物(建築物) 

204件

伝統的建造物(工作物) 

63件

環境物件 

72件

合 計 

339件

 

小川町 下河原町 上河原町

 

 

保存地区の概要
 篠山市は兵庫県の中東部にあり、古くから京都と山陰、山陽間の交通の要衝の地でした。江戸時代には幕府により大坂城の豊臣氏と西日本の大名を分断する格好の地として軍事上重要な位置づけがされ、慶長14(1609)年に徳川家康の命による天下普請によって篠山城が築城されました。翌15(1610)年からは城下町が計画的に整備され、江戸時代を通じて丹波国篠山藩5万石(文政10年から6万石)の中心地として栄えました。

 城下町の構成は、城の周囲に武士の屋敷地を配し、その外側に城下町を貫くように京街道が引き込まれ、街道沿いに町人地が形成されました。また城下町の入口や要所には寺院が配されました。
 
 城下町における保存地区の範囲は、国指定史跡篠山城跡とその周囲に町割りされた旧武家町、旧商家町からなり、東西約1,500メートル、南北約600メートル、面積約40.2ヘクタールに及びます。

 旧武家町は篠山城の外堀に面して上級武士の長屋門を残し、城の西に位置する南北の通り-御徒士町通りには天保元(1830)年の大火直後に建てられたとされる茅葺入母屋造りの武家屋敷を残し、通りに面して土塀と棟門を配します。
 
 旧商家町は、江戸時代末期から大正期に建てられた町家を連たんして残します。商家町の主屋は、切妻造妻入が主で、正面に下屋庇をつけ、二階窓上には主屋桁まで延ばした特色ある庇をつけます。
 
 篠山市篠山伝統的建造物群保存地区は、天下普請による篠山城跡を核とし、武家町や商家町の町割りを残すなど、近世の城下町の基本的構造を良く残すと共に、武家屋敷や近世から近代にかけて建てられた商家及び寺院など、城下町の要素を全体としてよく残し、その歴史的風致を良く今日に伝え、全国でも価値が高い町並みであると評価され、平成16(2004)年12月10日付けで国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定され、平成19(2007)年2月には城下町篠山の町並みが美しい日本の歴史的風土100選に選ばれました。また、平成21(2009)年1月には伝建地区のまちづくりを積極的に行っている篠山まちなみ保存会の活動などが評価され、文化庁長官表彰(文化芸術創造都市部門)を受賞、平成26(2014)年5月には都市景観大賞(都市空間部門)を受賞しました。

 

西新町 南新町 東新町

 

保存地区の歴史                                                                                            

 篠山城築城は、徳川家康が慶長5年(1603)に関ヶ原の戦いに勝利を収めたことを発端とします。家康は戦勝後の慶長8年(1603)に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きますが、大坂城には豊臣秀頼が健在で、豊臣家ゆかりの諸大名たちもその勢力を温存していたことから、大坂城を包囲する形で近畿の主立った城に譜代大名を配置する必要がありました。
 当時の篠山は京街道(近世山陰街道)の守りの要と位置づけられ、大坂城と西日本の諸大名たちを分断するのに格好の地であったことから、家康は実子松平(松井)康重を常陸国笠間城から丹波国八上城へ移封し、新たな城、篠山城築城を命じます。篠山城は、慶長14年(1609)に篠山盆地のほぼ中央、黒岡村と呼ばれる農村地帯にあった「笹山」という独立丘陵に天下普請によって築かれました。この丘陵に築城したのは、その西と東を「飛ノ山」「王地山」という同規模の丘陵が挟むとともに、南を篠山川が西流し二つの丘陵と相まって防御上有効な地形であったためです。

 城下町の整備は、この篠山城築城の翌年慶長15年(1610)から開始されます。城下町は康重の家老岡田内匠らが地割奉行となって、篠山城を中心に方格を基調として縄張りされました。城の東を南下していた黒岡川は城の南を西方向へ流下するように付け替えられ外堀の機能を持たされました。京街道は城下の南東に引き込まれ、北から西へと城下を貫くように整備されました。城下への出入り口には、真福寺、観音寺、尊宝寺、来迎寺、誓願寺、妙福寺を防御施設として配置しました。街道の両側には町屋を配し、東方並びに北方の防壁としての機能を担わせました。この町屋の整備は、周辺の町立てしていた町屋を城下へ強制的に移住させることによってなされました。一方、武家の住まいは城内に家老屋敷を配し、外堀の周縁に家臣屋敷、その外縁に徒士や中間足軽屋敷を配して、藩主の居住する篠山城を重層的に護るように配置されました。
 このような町屋並びに武家の計画的配置は、築城からおよそ40年後の正保年間(1644~48)までにはほぼ終了し、篠山城下町は篠山藩の政治経済の中心地として機能しました。
 

 明治元年(1868)に朝廷から山陰道鎮撫使が派遣され、城を明け渡すことにより篠山藩は終焉することになります。翌年には版籍奉還が行われ藩主青山忠敏が篠山藩知事に任命されます。しかし明治4年(1871)には廃藩置県により忠敏は職を解かれ東京への移住を命じられます。800人の藩士も俸禄を離れ、家老、家臣等武家の多くが篠山を立ち退き、篠山城周縁の武家町が衰退していくことになります。
 篠山藩の消滅は、藩政執行、経済統制という武家のための町が、城下に集住する商工業者の町へと都市の在り方を変化させる契機になりました。また郡役所、町役場、裁判所や税務署、旧制中学校、女学校といった新しい都市機能が加わることで、多紀郡の行政、教育、経済の中心地として機能し続けることになります。明治32年(1899)に阪鶴鉄道(現JR福知山線)が城下町から4km西方に開通し、また明治41年(1908)に歩兵第70連隊が城下町の北西に設置され、さらに大正10年(1921)に篠山軽便鉄道が篠山城北外堀端に沿って城下町内まで敷設(昭和19年廃線)されると、市街地が拡大し商店も増加することになります。これらのことから城下町の賑わいの中心は北・西方に移動することになります。


 戦前の一時期を除き、城下町の中には今日まで鉄道が敷設されたことはなく、日本の各都市に特有の駅前を中核とする市街地開発や無秩序な建築物の乱立といった状況とは無縁で、また地域住民の方々の町並み保存に対する意識の高さもあって、歴史的な町並みが現在もよく残されています。 

下河原町 西新町 上河原町

 

保存地区の現況

 保存地区は、篠山市の中心に位置する国指定史跡篠山城跡とその周辺に広がっています。
 篠山城跡は昭和31年に国の史跡指定を受けた後、継続的な石垣修理や大書院の復元建築により往時の姿を徐々に取り戻してきました。三方に角馬出を持ち、輪郭式と梯郭式を併用した近世平山城の存在が、保存地区の歴史的風致の象徴として位置づけられています。

 西新町並びに南新町、東新町の武家屋敷群は、篠山城の外堀を挟んで城の西から南、さらに東へ延びています。当該地区は江戸時代に家臣が集住した区域です。明治維新によって家臣の多くが篠山を離れたため、武家屋敷の多くは失われていますが、閑静な住宅地のまま残されてきたことから、城下町形成期に整備された区画道路が整然と残り、屋敷の敷地割りもよく原形をとどめています。また、西外堀から家臣居住区を挟んで西側の通称御徒士町通は、江戸期に建てられた茅葺きの武家屋敷が建ち並び往時の面影をとどめています。こういった武家屋敷の敷地内にはカキやクリが植えられ、当時の武家生活を偲ぶことができます。また城下町形成時に城下と城を防御するために植えられた竹林もよく原形をとどめ、篠山城の高石垣や堀とともに、篠山城下町の歴史的風致を高める役割を果たしています。さらに地区には、明治から昭和戦前期までの和風住宅も残され、篠山城下町の歴史的景観を特徴づけています。
 

 篠山城の東南方向の小川町から河原町は、京都から城下への出入り口に位置し、町屋建物が建ち並ぶ地区です。城下町整備の一環として引き込まれた街道の両側に、瓦葺中二階の妻入町屋が数多く建ち並び、近世から近代にかけての商業的発展の様子を現在に伝えています。これらの建造物の在り方は、他町と比べ改造の度合いが著しく低く、篠山城下町の歴史的景観を最もよくとどめた地域となっています。また、城下町形成時に防御施設として建てられた真福寺観音寺、また藩主の菩提寺であった本経寺が残り、町並みの構成要素として貴重なものとなっています。

 当該保存地区は、篠山城を中核として武家と町屋の町並みが一体的に残っていることが特徴で、保存地区では地区住民の町並みに対する意識の高さもあって、歴史的な町並みがよく残されています。その中でも特に御徒士町武家屋敷群と河原町妻入商家群は、篠山城下町の町並みを代表する歴史的風致を今日によく伝えています。
  篠山城の東南方向の小川町から河原町は、城下への出入り口に位置し、町屋建物が建ち並ぶ地区です。城下町整備の一環として引き込まれた街道の両側に、瓦葺中二階の妻入町屋が数多く建ち並び、近世から近代にかけての商業的発展の様子を現在に伝えています。これらの建造物の在り方は、他町と比べ改造の度合いが著しく低く、篠山城下町の歴史的景観を最もよくとどめた地域となっています。また、城下町形成時に防御施設として建てられた真福寺や観音寺、また藩主の菩提寺であった本経寺が残り、町並みの構成要素として貴重なものとなっています。
西新町並びに南新町、東新町の武家屋敷群は、篠山城の外堀を挟んで城の西から南、さらに東へ延びています。当該地区は江戸時代に家臣が集住した区域です。明治維新によって家臣の多くが篠山を離れたため、武家屋敷の多くは失われていますが、閑静な住宅地のまま残されてきたことから、城下町形成期に整備された区画道路が整然と残り、屋敷の敷地割りもよく原形をとどめています。また、西外堀から家臣居住区を挟んで西側の通称御徒士町通は、江戸期に建てられた茅葺きの武家屋敷が建ち並び往時の面影をとどめています。こういった武家屋敷の敷地内にはカキやクリが植えられ、当時の武家生活を偲ぶことができます。また城下町形成時に城下と城を防御するために植えられた竹林もよく原形をとどめ、篠山城の高石垣や堀とともに、篠山城下町の歴史的風致を高める役割を果たしています。さらに地区には、明治から昭和戦前期までの和風住宅も残され、篠山城下町の歴史的景観を特徴づけています。
 

  ■English,Korean,Chinese(PDF:808KB)  PDF
 

交通アクセス

【鉄道】
 JR福知山線「篠山口駅」下車(大阪駅から約1時間)、神姫グリーンバス「二階町」停留所から南へ(城跡・旧武家町)もしくは「本篠山」停留所(旧商家町)すぐ、もしくはタクシーをご利用下さい(駅から地区までバスもしくはタクシーで約15分)。
【自動車】
 舞鶴若狭自動車道「丹南篠山口IC」から東へ約10分。または国道176、372、173号線をご利用下さい。駐車場は篠山城跡周辺の駐車場(有料)をご利用下さい
交通マップ(広域) 交通マップ(詳細)

 

篠山・福住伝統的建造物群保存地区の位置図

※篠山伝建地区から東へ約12kmにある宿場町・農村集落の篠山市福住伝統的建造物群保存地区のページはこちら

【地図】
道知る兵衛▼見て食べ遊ぶ道知る兵衛で篠山城跡周辺を表示

 

▼Googleマップ(外部リンク)

 


 お願い 
 

伝建地区では伝統的な町並みを守るために、一定の基準が設けられています。

伝建地区内のすべての建築物等において、その現況を変える行為(現状変更行為)を行う場合は、あらかじめ市と教育委員会に申請の上、許可を受けていただく必要があります。

伝建地区内で建築・修繕など現状変更行為をお考えの方は、事前に教育委員会までご相談ください。

◆詳しくはこちらのページをご覧ください

 

  (連絡先)
   篠山市教育委員会 社会教育・文化財課
   〒669-2397
   篠山市北新町41(市役所第2庁舎3階)
   Tel : 079-552-5792(土日祝日を除く) 

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