国史跡 八上城跡

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八上城跡(高城山)空撮(北から) 八上城跡(篠山城天守台から) 八上城跡(放光寺山)空撮(北から)

(1)名称
  八上城跡(やかみじょうあと)

(2)文化財の種別
  史跡(国指定)

(3)指定年月日
  平成17年3月2日

(4)文化財の所在地
  兵庫県篠山市八上上字高城山、殿町、西八上、八上下、小多田地内
 
(5)面積
  1,776,472.27平方メートル

(6)文化財の概要

 八上城跡は、高城山の八上城を本城として、奥谷の城下を挟んで法光寺山の法光寺城を支城とする東西3㎞に及ぶ大規模な中世山城である。

 八上城北麓の八上地域は山陰道が東西に延びる街道筋であり、15世紀前半代郡奉行の在庁する守護所が置かれ、多紀郡の中心地であった。15世紀後半代、石見国の土豪であった波多野清秀が細川政元から多紀郡を与えられ、八上から入り込んだ奥谷中央の蕪谷に奥谷城(蕪丸)を築城し本拠地とした。この奥谷城の築城時期は清秀入部後とみられ、その後奥谷の中に城下が整備された。

 奥谷城の現状は高城山から西へ派生する尾根の先端部を大堀切で切断し、その舌状部に曲輪や竪堀が配置された東西200m、南北200mの小規模城郭である。奥谷城下の拠点としての館城であったものが、八上城が機能してのちは、その登城口を確保する番城の機能を併せ持つように縄張りが整備されたものである。

 この奥谷城が波多野氏の本城築城の出発点であるが、同時に高城山にも見張りや連絡機能を持つ砦を築いたものとみられ、それが16世紀初頭において本格的な山城に発達し、奥谷城に代わって本城の位置を獲得することになる。八上城の築城時期については、大永6年(1526)『足利李世記』『細川両家記』に「矢上城」として出ていることから、この頃には築城されていたことが明らかであるが、この築城時期は清秀の子の元清が当時管領職にあった細川高国に離反した時期に重なっている。高国は元清の弟の香西元盛を寵愛していたが、元盛を疎んじた細川尹賢が謀略を図り、元盛を殺害する。元清はもう一人の弟の柳本賢治とともに高国に反旗を翻し、赤井氏等丹波の国人を味方に付け、阿波の細川晴元と結んで高国政権を倒してしまう。八上城の築城はこの高国方との戦いに先んじて築城された蓋然性が高く、大永6年に細川尹賢等の討伐軍が八上城に籠城する元清を攻撃したことが文書からも明らかである。ちなみに、高国政権の武将として台頭した能勢頼則が永正13年(1516)に連歌会を催した「新城」として記録される芥川山城が畿内における支配拠点機能を持つ山城の登場の目安であり、八上城もほぼ同時期の築城となる。

 この八上城は主郭部分の曲輪や防御施設が集約的に整備された中核部分と、粗放分散する周辺部分とに明瞭に大別される。主郭部分は、主峰頂上部の本丸を中心にして曲輪が連続し、城内最大の水の手曲輪(朝路池)を確保するため、大堀切が二手に分かれて南方を遮断している。さらに、この水の手曲輪から以南は奥谷城への連絡ルートを確保するため、曲輪や帯曲輪、土橋、虎口などの施設が配置され、奥谷城を通じて奥谷城下と一体性を維持している。全体として織豊系以前の築城技術の到達点を示し、学術的な価値は高い。

 高国政権打倒後の波多野氏は多紀郡域を超え中央政界へ進出し、政治的影響力を強めることになる。入洛した元清とその子秀忠は上賀茂神社や広隆寺に禁制を掲げ洛中支配に乗り出したり、晴元の内衆として政権の権力基盤を支えることになる。秀忠は天文7年(1538)に、丹波守護代内藤氏の居城八木城を攻め落として丹波における勢力基盤を拡大し、山科言継が日記に「細川京兆被官丹州守護波多野備前守・・・」と記すほど、戦国期において細川京兆家の有力被官として認知される。

 16世紀後半に入ると、秀忠の子元秀が三好長慶の攻撃を受けることになる。細川晴元と対立していた細川氏綱が管領職に補せられた天文21年(1552)に、氏綱を擁していた長慶が松永久秀とともに晴元派の実力者であった元秀の拠る八上城を攻める。永禄2年(1559)に久秀の弟内藤宗勝(松永長頼)が八上城を攻めた際、法光寺山に「相城」(付城)を築いたとあり、これが法光寺城の城としての初出である。この一時期波多野氏は八上城を攻め取られてしまうが、永禄9年頃には城を奪還する。法光寺城はその城郭構造に西方に対して防御する工夫が認められることから、永禄2年に宗勝が相城を築くまでに八上城とともに奥谷の城下を守るために既に築かれていたとみられる。この頃までは八上城の城下の中心は奥谷にあったことになり、八上城・奥谷城下・法光寺城の城下町を防御する東西横並びの空間構成が成立していたことがわかる。

 法光寺城は東西及び南北に走る尾根のピークに、曲輪群が配置される。それらは全体で6箇所に分かれ、八上城の西方防衛の支城として築かれる。しかし、一部には八上城攻撃の付城として機能した状況も確認でき、それは永禄2年またはのちの天正6年の攻防戦の際の付城構築によるものとみられる。

 天正年間に入ると、元秀の子秀治が織田信長から離反し、毛利氏に与同する。天正4年(1576)、黒井城に拠る赤井直正攻撃のために丹波に入国した明智光秀を秀治が背後から攻撃し、光秀は敗走する。天正6年からは光秀が八上城を攻撃するが、八上城は塀や柵によって包囲され、その後半年間にわたって籠城戦が続く。翌年の6月には八上城は落城、秀治等三兄弟は安土城下慈恩寺で磔刑となり、波多野氏は滅亡する。この天正6年の攻撃に先だって、城下の中心は奥谷から八上城北麓の八上側に移されたものとみられ、北側大手の縄張りに改造されたことになる。

八上城郭群は永禄2年と天正6年の二度にわたる大規模な攻防戦を経験する過程で、城と城下の位置関係の転換と、それに伴う八上城北麓の館(主膳屋敷)構築、谷を隔てる支城とのセット関係の成立など、内容豊かな空間構成ができあがることになる。また、八上城の縄張りは中核部分(主峰部分)と周辺部分とに区分され、明智勢を迎え撃って籠城した戦績に対応し当時の大規模な拠点城郭の典型例として評価される。

落城後は光秀や前田玄以、さらに前田茂勝が八上城を拠点として多紀郡を領有する。慶長13年(1608)に茂勝が改易されると、松平康重が篠山新城築城のために移封される。康重は八上城にあって篠山城普請を督励するが、慶長14年の新城入城によって八上城は名実共に廃絶される。

 このように、八上城跡は奥谷城、八上城、法光寺城、主膳屋敷と戦国期を通じ波多野氏の居城としてその構築の経緯が明らかであり、かつ中世山城から近世平山城への遷移の系譜が追える城として貴重である。また、この城跡が中世後期の政治史と密接な関連を持つことでも価値が高い。細川政元政権崩壊後、細川総領家を擁立するのは細川内衆と畿内周辺の守護代・国人層であり、在地支配を強化した国人衆は自立化を進めその多くが戦国大名への道を歩む。波多野氏はその政治的軍事的影響力から戦国大名に匹敵するという評価もあるが、城下の空間構成や縄張りの特徴は戦国期の地域支配者の一般的な姿を最も明瞭に示している。細川氏の有力内衆として活躍した波多野氏の政治的軍事的権力は在地に集約されることなく中央政界において消費され、戦国大名権力に到達することはなかった。その意味で、八上城・法光寺城の城郭構造は畿内近国における中世領主の権力形成のあり方を端的に物語るものと言える。

 以上のように、八上城跡は戦国時代に多紀郡一円を支配した波多野氏の居城として、織田信長による丹波攻略の主戦場として、また戦国期山城の典型例として、さらに八上城落城後、近接して築城される近世城郭の典型例篠山城と対比する城として、日本中世史上並びに日本城郭史上極めて重要な遺跡である。

八上城跡周辺地図
八上城跡周辺地図

八上城跡指定範囲図
八上城跡指定範囲図(赤線内が史跡指定範囲)

八上城跡縄張図
八上城跡(高城山部分)縄張図

八上城跡全景空撮(北から) 八上城跡全景空撮(南から)
八上城跡全景空撮(北から) 八上城跡全景空撮(南から)

高城山観光マップ
八上城跡(高城山)観光マップ 

 

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